昭和56年7月25日 朝の御理解
御理解第89節 此方の道は傘一本で開くことができる。
私共が頂いておる金光教の信心、いうならば、あー、お道の信心を頂いておって、その神様の、おー、まあ、神様の働きと申しましょうか。実力と申しましょうか。まさかの時にはこういうおかげも受けられるということを、見たり聞いたり、または、自分自身もそれを頂いて、いよいよ、いざという時には、この神様に一心におすがりすればという、まあ、いうならば、今日の御理解の傘一本というかね。まあ、傘一本ということを、心の安心、または安全感、安らぎと。まあ、いろいろに頂けるでしょうけれども、これは、仏教でいう安心立命ではないのですよね。
傘一本もっときゃ安心だと。ね、降ってきたらさしゃよい。照ってきたら、またさしゃ、暑い思いをせんでんすんだり、濡れんですむという、心にゆとりと安心が生まれてくるから、なるほど、そういう心を、が、そなわったというか、そういう心が鍛えられて、たとえば、あー、布教にでると。そりゃ、傘一本持っていきゃ、道が開けるんだよというわけなんです、ね。
だから、私共でもそうです。この傘一本の信心が頂けたら、ね、全てのことがね、えー、開けるんだ。繁盛の道につながるんだというふうに、それに、いわいる確信もとものうてくるわけです。
昨日は、えー、今あの鞍手の方から、それこそ熱烈な信心ができなきゃできませんよね。毎日あーして、たくさんの方が、自動車で参ってきます。その芯になるのが、柴田さんですが、自分の願いが成就しないにしても、その柴田さんが願われる人のことは、もう不思議におかげを頂くですね。先だってからも、喉頭癌で、えー、医者から手術をするという本人を連れて参って、一回参ってきただけです。昨日、そのお届けがありましたが、ね、もうお医者さんがもうビックリして、こりゃあんた、このままなら手術せんでよいというごとおかげを頂いとる。
まあ、そういう例は、合楽では限りありませんよね。例えば、今日そこに参っておられる、泉さんたち夫婦の場合でもそうです。いわいる、小竹という所から参ってみえる、大変まあ、熱心に、心がなからなきゃ、なかなか参り、朝の御祈念なんか参りませんよね。あちらの奥さんのお父さんが、もちろん参ったことありません。まあ、あー泉さんたち夫婦の信心でというほかにないですけども、えー、膀胱をとって、のかさなきゃならんという病気であった。だから、このへんから、なんか、穴を開けて小便を出さにゃんというようなところまでなっておられたのが、あー、お願いをなさったり、昨日のお届けです。ね。それこそ医者がこりゃ、手術せんでもよいという。そして、昨日、たくさん尿を出るおかげを頂いたというお届けがございました。
もう、どんなに考えてもね、まあ、いうならば、不思議な不思議なおかげですけども、なら、そういうの皆さんは、毎日ここで、見たり聞いたり、実際におかげを受けていく一つの姿を、見たり聞いたりしますからね、はあ、いよいよの時にはこういう働きも見せて下さる神様だと。いよいよの時には、こういうおかげも頂けれる神様だというふうに、例えばそのあたくし共が、対象としておる神様が力もなーんもない。ね、教えだけはなかなか素晴らしいばってん、というのじゃなくて、合楽の場合は教えも素晴らしいが、それに伴うおかげもまた素晴らしいんだ。人間の知恵、力ではどうにもできない、いうならこれは病気だけのことじゃありません。経済の問題だってそうです。ね、人間関係だってそうです。もう、それこそ昨日もある大変な難儀な問題、もう、どーにもできない、もつれにもつれた問題が、もう、不思議に馬鹿のようないうならば、梳き櫛で乱れた髪を梳くように、すっきりしたおかげを頂いておる。その一家の、その一家というか関わった人達がみんな、御礼に出てきました。
なるほど、この神様はお話しに聞けば、ね、とにかく丸うせずにはおかんという働きがあるということを聞いておったが、本当にそうですというお届けでした。ね、その気になったら、もう丸うせずにはおかんという働きがあるからこそ、こういうおかげが頂けた。と言うわけです。ね、ですから、そういういうなら、まあ、信心しておかげを受けるのは不思議じゃない。信心しておかげを受けられんなら、それの方が不思議なことじゃと、教祖は仰っておられますがです、私共はやっぱり奇跡といわなおられませんけれども、ね、そういうおかげも頂けるという、そういう力も働きももっておいでる神様を私共は信心しておる。して、その神様の心に添いたい、その神様の思いに添いたい、ご神願に答え奉りたいと信心が育ってくる。
ね、昨日の昼のミニ御理解にも頂きましたように、ね、お供え物とおかげは付き物じゃないと、だから、お供えせんでもおかげが頂けれる。確かにそういう神様なんです。願えば。もう2ヶ月以上にもなりましょうか。あれは、あのその野村さんのお話しを聞かれただけでしょう。原田きくよさんという方が、毎日電話かけてくるんです。始めの間、参ってもこんな、お願いばっかりしてからと思いよったけれども、そのお願いするたんびに、おかげ頂くから、もうとにかく有り難たいっぱいで電話かけよんなさると思うたから、思うから、いっぺんでん参ってきなさらんかとも言いません、思いません。おかげ頂くんです。
そして、最近では、いろいろとお知らせを頂くんです。ね。ですから、確かに、そのお供え物とかお参りと、関係あるのじゃないね、今言う、泉さんのところであっても、柴田さんのところの場合であっても、柴田さんのところのは本人がいっぺん参ってきただけ。泉さんたちのところは、夫婦が一生懸命願われるだけで、お父さんはここに参ってきたことない。それでも、どうにもできない小便が、ゆうなら出たというのです。ね、手術してとりのぞかなならんと言いよった。ね、そういう働きを私共は見たり、聞いたりしてなるほど、不思議な力をもった神様だなー、と思うところに心が安らぎますね。私共が頂いておる神様は、こういう神様だということがわかる。
そこで、ならいよいよそれが、まあ、安心ともなり、ね、私共のいうなら、なんというても、何がバックというても、天地がバックほど、心強いことはない。その、天地がバックだと、信じれれるということ。そこに私は傘一本が頂けれるんだと。ね、どうしてそういうおかげが頂けれるかと言うと、なら、やはり親だからだというのが、昨日のミニ御理解でしたよね。それは、母親が乳飲み子に、いわいる無条件でお乳を与えるようなもんだという御理解でしたね、昨日の昼のミニ御理解です。けども、先のほうにあります。ね、というていつまでも、お乳にすわぶっとるといったようなことでは、いけんのだと。親の手にも足にもならせて頂けれる、いうならば、育たなければならんというのが、昨日のミニ御理解。
ね、なるほど、お供えとおかげは付き物なら、ほんなら、もうお供えせんでおかげ頂かるんなら、もう、しかも電話一本でなら、参ることもいらん、お供えすることもいらん。これが、一番よいというと、いうなようなところだけに留まっておってはならない。お参りもできるようになり、御用もお供えもどんどん、有り難くできるようになる。初めて、ね、いうならば、親の喜び。ね、親の安心。その親の安心が、こちらにかえってきくる安心。これが、本当の安心なんです。あの氏子はもう、大丈夫。ね、あの氏子は、もう安心だと神様が、安心して下さるような、喜んで下さるような信心ができたときに、あたくしどもに、心の中に頂けるのが、安心の喜びであります。
傘一本で助かる。ね、なるほど、意図簡単であるけれども、簡単な表現ですけれども、それにはそういう、深い、ご神意、御神慮というものがある。いわいる、信心しておかげを受けてくれよである。信心してという、その信心がいうならば、育っていく、そして、神の手足にもならせて頂けるような、働きが現せるようになる。神様が喜んで下さる、安心して下さる。あの氏子はもう大丈夫。その神様が安心して下さる、その安心が、こちらへ返ってくる。それが、本当の意味においての傘一本なんですよね。どうぞ。
治子